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君はどこに在るの

ど新規の小山担が好き勝手語ります

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思い出ごと抱きしめたかったのだーニャン太のことー

NEVERLANDツアーが終わった。私にとって初めてのNEWSのツアーで、すっごくすっごく幸せで、こんなに幸せな時間があっていいのかと怖いくらいだった。たくさん書きたいことはあるけれど、今日はこの話をさせてほしい。幸せな感想はまたの機会にでも書ければと思っている。曲名が発表されたときから私のなかでストレートには消化しきれなかった、彼のソロ曲『ニャン太』について。彼を批判するつもりなんか微塵もありません。ただ私の気持ちの問題だしたぶん明るい話ではないので、少しでも嫌な予感がした方はブラウザバックをお願いします。
 
曲名が発表されたとき、「あぁ、ついにそのときがきてしまったんだな。」と思った。そして怖かった。なぜこうしてさらけ出す選択をしたんだろうって。自分のなかでこっそり大切にとっておいていいのに、なぜ形に残そうとしたんだろうって。でもフォロワーさんの意見やシゲアキのクラウドを読んで、「彼は同情が欲しいわけでも悲しみに浸りたいわけでもなく、自分の気持ちに整理をつけるために、前を向くために、歌にすることにしたんだ」と少しずつ納得した。その気持ちが分かってきたからこそ、形にしてみたら感情を整理できるのではないかと、私も今こうしてこんな湿っぽいブログを書いている。
 
彼の気持ちを受け止めると決めてから、こっそり避けていたニャン太を何回も何回も聴いた。私は人間以外の全ての生き物が苦手だし、身近な人との死別を経験したこともない。だからそんな私が流す涙は安っぽいし、"共感"じゃなくて”同情"みたいになりそうで、聴いても泣くのを堪えていた。
 
堪えているんだと、そう思っていた。思いたかった。
 
でも、コンサートで慶ちゃんが懸命に歌っているのを生で聴いても、涙を堪えようともしていない自分に気づいてしまった。

そしてこう気づいてしまった。私はやっぱりほんとはニャン太で”泣きたかった”のだ、と。この曲で泣くことのできる、心の綺麗な人や彼の気持ちに共感できる人が羨ましかったのだ、と。動物を愛したことも大切な人との死別も経験したこともない私は、泣けなかった。彼の思いをうまく受け取ってあげることができなかった。ただその事実だけがあって。横で泣いている友達を見て、泣いたと言う小山担と話して、キレイだなと思った。慶ちゃんのことを知りたいのに、ニャン太との思い出という彼の一部を理解して愛してあげられなかった。全てを愛してる、って言う必要もないと思うけれど、ほんとは彼が泣きながらでも伝えたかった思いを肯定したかった。もちろん否定はしていないけれど、共感の涙を流せなかったことが悲しくて。
 
天に祈って、マイク1本で気持ちを込めて、声を振り絞って歌う慶ちゃんに、私はどれだけ寄り添うことができたのだろうか。
 
ああ、どうかこんな私でも、あなたの味方でいさせてほしい。どうかあなたが綺麗な思い出として、19年連れ添った相棒のことを思い出せますように。余計な声が届きませんように。ちゃんと思い出ごと抱きしめてくれる存在が在りますように。
 
この歌は、シゲの言葉を借りると「ニャン太のいない世界を生きていく小山慶一郎に対する応援歌」だ。私はレクイエムとしてのこの歌に共感することはできなかったけれど、この『応援歌』をやっぱり愛しているし愛したい。ニャン太との思い出を共有できなくても、「ニャン太が宿っている」慶ちゃんを愛したい。慶ちゃんの宣誓を見守ることができたことに感謝したい。そう考えると、こんな私でも小山担と名乗っても許されるのではないかと少し思える。私なりにではあるけど、ちゃんと慶ちゃんの声聞いたよ。素直すぎるくらい素直な歌詞が好きだよ。見守らせてくれてありがとう。